リッチー・ブラックモア

リッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore, 本名:Richard Hugh Blackmore(リチャード・ヒュー・ブラックモア[注釈 1]1945年4月14日 - )は、イングランドギタリストアメリカ合衆国在住。身長179cm。

リッチー・ブラックモア
Ritchie Blackmore
レインボー - 英ロンドン公演(2017年)
基本情報
出生名 Richard Hugh Blackmore
生誕 (1945-04-14) 1945年4月14日(79歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド
サマセット州ウェストン=スーパー=メア
ジャンル ハードロック[1]
ヘヴィメタル[2]
職業 ミュージシャンギタリスト作曲家
担当楽器 ギター
活動期間 1961年 - 現在
レーベル ポリドール・レコード
BMG
共同作業者 ディープ・パープル
レインボー
ブラックモアズ・ナイト
公式サイト blackmoresnight.com
著名使用楽器
フェンダー・ストラトキャスター
J.S.バッハ
ジミ・ヘンドリックス
ダス・ガイヤー・シュワッサー・ハウフェン

1970年代から80年代にかけて人気と支持を得たギター・ヒーローハード・ロックバンドディープ・パープル」の創設メンバーとして名を馳せ、「レインボー」や「ブラックモアズ・ナイト」を結成して主宰を務めてきた。

ローリング・ストーン誌選出「歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第55位、2011年の改訂版では第50位。2016年、ディープ・パープル名義でロックの殿堂入り。

概要 編集

ブルースロック全盛期の1970年代に、ロック・ギターにクラシック音楽フレーズを導入。ロックの音楽の幅を大きく押し広げ、1970年代以降のハードロックシーンに計り知れない影響を与えた。

ステージでのストラトキャスターの多用や破壊は、ハードロックやヘヴィメタルのギター・ヒーローのパフォーマンスの象徴として、現在に至るまで受け継がれてきた。

少年時代 編集

イングランド西部の保養地、サマセットウェストン=スーパー=メアで生まれ、ロンドン近郊ミドルセックス州ヘストンで育つ。

1956年、11歳の誕生日に父親から当時の価格で7ポンドスパニッシュ・ギターをプレゼントされ、クラシック・ギターのレッスンを約1年間受ける[3][注釈 2]。まもなく、当時近所に住んでいたビッグ・ジム・サリヴァンロックン・ロールのギターを習い始めた[4]

14歳の時、初めてエレクトリックギターカール・ヘフナー (Höfner)・クラブ=50 を手にして、人前で初めての演奏を披露した。エレクトリック・ギターの魅力に取り憑かれた彼は、さらに腕前を向上させていった[3][5]

下積み時代(1961年 - 1966年) 編集

1960年、15歳の時に学校を去ってロンドンヒースロー空港で技師として働き始め、金を得て初のプロ・ユース・エレクトリックギター、ギブソンES335を手に入れた[6]1961年ジャズ・ギターの練習やバンド活動にいそしみ、スキッフル・バンドのザ・ドミネイションズザ・サフォナイツザ・デトネイターズマイク・ディーン・アンド・ザ・ジェイウォーカーズ(Mike Dee & The Jaywalkers)といったローカル・バンドで活動した[3][注釈 3][7]

1961年以降、そういった活動に見切りをつけ、ドイツのハンブルクに渡った時、スター・クラブ英語版スクリーミング・ロード・サッチと出会い、セッションを行った。さらに後日、ブラックモアを気に入ったサッチは、彼を自分が率いるスクリーミング・ロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジス(Screaming Lord Sutch & The Savages)に迎えた[8][注釈 4]。サッチは音楽的な実力よりもショーマンとしての能力に秀でたミュージシャンで[3]、実力はあっても地味な印象しかなかったブラックモアにメイクをさせ、ステージで大きなアクションをするように要求した[注釈 5]。ザ・サヴェイジスに在籍した2年間、サッチとの活動に加えて、ヒット曲「テルスター[注釈 6][9]を発表したトルネイドース[注釈 7](The Tornadors)のレコーディング・セッションなどもこなし、次第に実績を蓄えていく。

1963年からはRGMスタジオのセッション・ミュージシャンとなり、無名時代のトム・ジョーンズトルネイドースの「テルスター」を手掛けた売れっ子プロデューサーのジョー・ミーク (Joe Meek) の下で多くのセッション活動をこなした。同年、トルネイドーズのベーシストだった歌手ハインツ・バート (Heinz) の伴奏を務めている。6月には再度ハンブルクに行き、ミークの関連でジ・アウトローズThe Outlaws) に加入した[10]。アウトローズは自分達のレコードを出す本業の傍ら、ハインツやジェリー・リー・ルイスジーン・ヴィンセント伴奏も手がけたが、ブラックモアは1964年5月に脱退[注釈 8][11]。ハインツの要請で、彼のハインツ・アンド・ザ・ワイルド・ボーイズ(Heinz & The Wild Boys)にリーダーとして加入した[12]が、音楽的な限界を感じて翌1965年1月に脱退し[注釈 9]、2月にスクリーミング・ロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジスに再加入[13]ジェフ・ベックジミー・ペイジと短期間セッションを行ったのもこの頃である。1965年3月にソロ・シングル'Getaway'/'Little Brown Jug'を発表[14]

1966年、二人の友人とハンブルクに再々渡航し、スリー・マスケティアーズ(Three Musketeers)[13]を結成するが、すぐに解散[注釈 10]。11月にスクリーミング・ロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジスに再々加入して1967年5月まで在籍[注釈 11][15][16]。さらにマンドレイク・ルート(Mandrake Root)を結成するが、資金面の困難さからすぐに消滅[17][注釈 12]。低迷した時期だったが、この頃クリス・カーティス (Chris Curtis) やイアン・ペイス[18][注釈 13]と知り合った。

ディープ・パープル時代(1967年 - 1975年、1984年 - 1993年) 編集

 
ディープ・パープル時代 (1971年)

1967年、当時サーチャーズドラムヴォーカルを担当していたクリス・カーティス (Chris Curtis) が新しいバンド「ラウンドアバウト」のメンバーを探し始めた。同年12月にカーティスが最初にメンバーにしたのはフラワー・ポットメン (The Flower Pot Men) のバック・バンドのメンバーだったジョン・ロード(キーボード)で、次がブラックモアだった。さらにカーティスはボビー・クラーク(ドラムス)を加えたが、ほどなく失踪。ラウンドアバウトのメンバー探しは中断し、ブラックモアはクリスマスに再びハンブルクに渡った[19]。翌1968年、ロードとブラックモアはメンバー探しを再開して、ニック・シンパー(ベース)、ロッド・エヴァンス(ボーカル)を迎えた、さらにエヴァンスが在籍していたバンドのメンバーでオーディションに偶然一緒に来てブラックモアと再会したペイスを、クラークに代えて迎えた。こうしてメンバー5人が揃った時点でバンド名を「ディープ・パープル」に改め、アメリカの新興レコード会社、テトラグラマトン・レコード (Tetragrammaton Records) よりデビューを飾る)。

第1期の代表曲には「ハッシュ」、ハードロック・バンドとなった第2期以降の代表曲には「ハイウェイ・スター」、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、「ブラック・ナイト」、「紫の炎」、「スピード・キング」など多数がある。彼は商業的に最も成功した第2期以後の楽曲の多くを中心となって作ったとされている。

第2期の1971年4月、ロンドンのCountry Clubでサッチのライブ活動に参加[20]。1972年にサッチがロード・サッチ・アンド・ヘヴィフレンズ名義で発表したライブ・アルバム『ハンズ・オブ・ジャック・ザ・リッパー』[21]に参加。

第2期末期の1973年頃に、ブラックモアはペイスを誘ってディープ・パープルを脱退し、シン・リジィフィル・ライノットとベイビー・フェイスなるニュー・トリオの結成を画策していたことがあった。しかしペイスには断られた上に残留を強く促され、ライノットからも断られて計画は流れてしまった。彼は結局第3期まで在籍して1975年4月に脱退。在籍末期に水面下で始めたソロ活動を発展させるために、リッチー・ブラックモアズ・レインボーを結成した。

1984年、第2期メンバーによるディープ・パープルの再結成を主導。しかし他のメンバーとの音楽的相違などから1993年に再度脱退。契約レーベル側には、ソロ形態のアルバムを出す条件で脱退を認めさせ、結果リッチー・ブラックモアズ・レインボーの活動再開に向かった(後述)。

レインボー時代(1975年 - 1984年、1995年 - 1997年) 編集

 
レインボー時代(1977年)

1975年ロニー・ジェイムス・ディオ(ボーカル)を起用してソロ作品を制作する過程でディープ・パープルを脱退。ディオが在籍していた「エルフ」を母体にして「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」を結成した。合意形成型のディープ・パープルと違い、あくまで彼のソロ活動の延長線上にあるワン・マン・バンドであった。

当初はディープ・パープルの路線を踏襲しつつも、ブルースロックと中世的な音楽の両方を取り入れたハードロックを目指していた。ディオ以外のメンバーを一新してコージー・パウエル(ドラム)らを迎え、セカンド・アルバム『虹を翔る覇者』を発表。「レインボー」として黄金時代を迎えた。その後もアルバム毎にメンバー交代が行われ、次第にアメリカ市場を意識したポップセンスのある曲調が多くなっていった。

1984年、ブラックモアがディープ・パープルの再結成に合流するため活動を停止。

ディープ・パープル再度脱退後の1995年、新規に編成したメンバーでリッチー・ブラックモアズ・レインボーを再興[注釈 14]。アルバム『孤高のストレンジャー』を発表後、来日公演を含むツアーを行うが1997年に再び自然消滅的な状態で活動を停止する。

その後、ディオやパウエルを含んだクラシック・メンバーによる再結成の話が持ち上がったが、実現に至らないまま、彼等の死去により幻に終わった。

ブラックモアズ・ナイト期(1997年 - 現在) 編集

 
ブラックモアズ・ナイト - N.Y.公演(2012年)

1997年、婚約者のキャンディス・ナイト(ボーカル)とブラックモアズ・ナイトを結成。 イギリス中世の音楽を現代風にアレンジした音楽を演奏。 

ロシア、ドイツ、チェコでは、アルバムの幾つかがゴールドディスクに認定された。アメリカやイギリスでは殆どヒットしていないがニューエイジ賞やニューエイジ部門ベストヴォーカリスト賞などを獲得した。日本ではファースト・アルバムが10万枚近く売れたが、その後のアルバム販売枚数は発表毎で減少傾向にある[22]。2020年時点で、アルバムの発表数はライブ盤を含めると二桁に達している。

アルバム『ダンサー・アンド・ザ・ムーン』(2013年)に、前年の2012年に病没したロードを追悼したインストゥルメンタルの単独作'Carry On... Jon'を収録した。

ナイトは現夫人。ブラックモアには4人目の結婚相手にあたる(#結婚歴参照)。

2010年代以降(2010年 - 現在) 編集

2015年7月、音楽媒体のインタビューで「来年の6月にRock(HR/HM)の欧州公演を企画している。それはレインボーディープ・パープルになる」と明かした。70歳になったので体が動けるうちにという考慮と、ノスタルジアな気持ちになったのが大きな理由だと述べている[23]。公式Facebookページで、リッチー・ブラックモアズ・レインボー(Ritchie Blackmore's Rainbow)名義のツアーのポスター画像が公開された[24]。その後ツアー・メンバーが発表され[25]、ドイツで2公演(モンスターズ・オブ・ロック)、イングランドで1公演が決定した[26]

2016年2月、ディープ・パープル名義でロックの殿堂入りが決定。しかし同じ受賞者であるディープ・パープルの現メンバーが共演を拒否したので授賞式を欠席[27]。「実際、殿堂入りには全く興味ない」と語っていた。

同年6月、レインボー名義で当初の予定通り全3回の公演を実施[28]。ブラックモアは「反応次第では、まだ継続する可能性がある」と含みを残した[29]。そして翌2017年からも年数回の公演を開催している[30]

音楽性 編集

それまでペンタトニック・スケール一辺倒だったロック・ギターに、クロマチック・スケールやハーモニック・マイナー、さらにクラシックの曲を大胆に取り入れ、音楽表現の拡大に寄与した。ディープ・パープルやレインボーに在籍したハードロック時代にも、ライヴの即興演奏でバッハのガヴォットやイングランド民謡であるグリーンスリーヴスを披露した。

プロになった頃から第1期ディープ・パープルまではビッグ・ジム・サリヴァンの影響が色濃く残っていたが、ブルース・ブレイカーズ在籍時からクリーム在籍時のエリック・クラプトンに影響を受け、ブルースロック的なテクニック、ベンディングや大きなヴィブラートを自らのプレイに取り入れた[注釈 15]。こうして第2期ディープ・パープルのアルバム『ディープ・パープル・イン・ロック』以降のスタイルを確立した。

ジミ・ヘンドリックスからの影響 編集

 
(2012年)

ブラックモアはジミ・ヘンドリックスの影響を強く受けていることを公言しており、ブラックモアズ・ナイトではヘンドリックスを偲ぶ楽曲も発表している。

ディープ・パープルはデビュー・アルバムで、ヘンドリックスがカバーした「ヘイ・ジョー」(Hey Joe)をカバーした。 また『ディープ・パープル・イン・ロック』の「スピード・キング」は、彼の「ファイア」をヒントにした[注釈 16]

ブラックモアは1969年製ブラックストラトキャスターを入手して1972年中期までトレードマークとして使用したほか、テレキャスターネックを装着したホワイト・ストラトキャスターを演奏したり、時折ステージで左利き用ストラトキャスターを使用したりするなど、ヘンドリックスへの強い傾倒振りを示していた[注釈 17]。ギターの破壊などのパフォーマンスもヘンドリックスからの影響だと見る論評も多い[注釈 18]

ディープ・パープルが1968年10月に初のアメリカ・ツアーでクリームの解散コンサートの前座を務めた[31]際、コンサートを見にきたヘンドリックスからパーティに招待されている[注釈 19]。メンバーのニック・シンパー(ベース)は、ヘンドリックスに「TVで見たけど君のバンドにいる黒装束のギタリストは凄いな」と言われたという。

レインボーのアルバム『闇からの一撃』(1982年)の原題"Straight between the Eyes"は、ジェフ・ベックがブラックモアに語った「ジミの演奏は視覚へストレートに飛び込んでくる」という言葉に由来する。

使用機材 編集

 
愛用のフェンダー・ストラトキャスター(1985年)

ハード・ロック演奏時の使用楽器はラージヘッド仕様のフェンダー・ストラトキャスターが有名。ストラトキャスターには指板をえぐる(スキャロップド・フィンガーボード)、トレモロアームを交換する[注釈 20]ピックアップのワイアリングを換えるなどの改造[注釈 21]が施されていた。

ディープ・パープル初期は、ハンブルグ下積み時代から愛用していた1961年製ギブソン・ES-335をメインに1968年製ギブソン・SG(使用遍歴は不明)、年式不明だがビグスビーB5トレモロ・ユニットを装着したフェンダー・テレキャスター、ローディを通じてエリック・クラプトンから譲り受けたテレキャスターのネックが移植されたサンバースト・フィニッシュのストラトキャスターを使っていた。第2期になってハード・ロック色を明確に打ち出されてからは、全面的にストラトキャスター[注釈 22]を使用している。ディープ・パープル再結成から近年までは、アームはほとんど使用されていない。1995年のYOUNG GUITAR誌のインタビューでは「あの頃(活動初期)はアームを使うプレーヤーがあまり居なかったが、現在は多く用いられるようになったので止めた」と発言している。

エフェクターは1970年頃、イギリス製ホーンビー・スキューズ(Hornby Skewes) のトレブル・ブースター[32]を入手して第2期末期まで使用。他にダラス・アービターのファズフェイスを1969年から1971年頃まで使用していた[注釈 23]。1973年頃からアイワオープンリール・テープデッキTP-1011[33]を、改造しエコーマシンとして、1977年からモーグのベースペダル・タウラス・ペダル・シンセサイザー(TAURUS Ⅰ)[34]を使用している。アンプはマーシャルの200Wアンプ[35]を好んで使用していたが、レインボー再結成以降ではENGL社のハイゲインアンプが気に入り、現在までシグネイチュア・モデル・アンプヘッドからコンボ・アンプといった具合に多く用いている。ピックは鼈甲製の「ホームベース型」[注釈 24]と呼ばれる物を長年愛用している。

ブラックモアズ・ナイトでは、アコースティック・ギターを中心に演奏している。

結婚歴 編集

1964年3月18日、ジ・アウトローズに在籍中、ドイツのハンブルクでマーギット(Margit)と結婚[9]。同年にユルゲン・リヒャルト・ブラックモア[12]誕生。ユルゲンは一時期アイアン・エンジェル (Iron Angel) のギタリストを務め、現在、元レインボーのジョー・リン・ターナーらと結成した「オーヴァー・ザ・レインボー」(Over the Rainbow)で活動している[36]。ブラックモアとマーギットは1969年に離婚[12]

2度目の結婚は1969年9月で、相手は前妻と同じくドイツ人のバブス・ハーディー (Bärbel Haerdie、本名はバーベル)[37][38]

3度目の結婚は1981年5月で、相手はエイミー・ロスマン[39]

 
妻キャンディス・ナイト(2009年)

ブラックモアズ・ナイトで共に活動しているキャンディス・ナイトとは1989年から付き合い始め、1991年から同棲、1994年に婚約し[40]、2008年10月5日、キャッスル・オン・ザ・ハドソンで結婚した[41]。26歳年下の彼女との間に、2010年に娘オータム・エスメラルダ・ブラックモア誕生。さらに2歳下の息子ローリー・ブラックモアも授かった。

ディスコグラフィ 編集

ソロ作品 編集

コンピレーション(1960年代のセッション編集盤)

  • Ritchie Blackmore – Rock Profile Vol. 1 (1989年)[42]
  • Ritchie Blackmore – Rock Profile Vol. 2 (1991年)[43]
  • Ritchie Blackmore – Take It! Sessions 63/68 (1994年)[44]
  • Ritchie Blackmore – Anthology Vol.1 (1998年)[45]
  • Ritchie Blackmore – Anthology Vol.2 (1998年)[46]
  • Ritchie Blackmore – Getaway – Groups & Sessions (2005年)[47]

ディープ・パープル 編集

スタジオアルバム

ライブアルバム

コンピレーション

レインボー 編集

ブラックモアズ・ナイト 編集

その他 編集

  • Lord Sutch And Heavy Friends – Hands Of Jack The Ripper(1972年)[48]
  • Neil Christian & The Crusaders – Featuring Jimmy Page, Ritchie Blackmore And Nicky Hopkins(1993年)[49]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 過去にミドルネームをハロルド(Harold)と表記するメディアがあったが、誤りである。
  2. ^ 本人は、フレットを押さえる時に小指が使えるのは、その時のレッスンが生きているから、と述べている。
  3. ^ Popoff著の"The Deep Purple Family Year By Year Volume One (to 1979)"によると、ブラックモアは1961年5月から1962年4月までの期間、Mike Dee & The Jaywalkersに在籍してプロになった。一方、彼はThe Dominatorsというバンドともステージに立ったという。
  4. ^ Popoffによると、1962年4月と5月はThe Jaywalkers改めThe Condors、6月から10月12日まではロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジスで演奏した。
  5. ^ 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』によれば、この経験は、その後のショーマンとしてのリッチー・ブラックモアの形成に大きく貢献している。
  6. ^ 1962年8月に発表され、イギリスのバンドのレコードとして初めてビルボードの第一位を記録したインストゥルメンタル。
  7. ^ 「トーネイドース」「トーネイドーズ」「トルネイドス」「トルナドース」とも呼ばれる。
  8. ^ Popoffによると、ブラックモアはジ・アウトローズに1962年10月から1964年4月まで在籍。ジ・アウトローズは1962年10月26日にビートルズ、1964年3月18日にはローリング・ストーンズの前座を務めた。1964年3月18日はブラックモアの最初の結婚式の日でもあった。
  9. ^ Popoffによると、その他The Sessions、Ritchie Blackmore Orchestra、The Lancasters、1965年にはNeil Christian and the Crusadersと活動した。
  10. ^ Popoffによると、1965年2月から5月にかけてスクリーミング・ロード・サッチ・アンド・ザ・サヴェイジスでの活動とジェリー・リー・ルイスの伴奏を行ない、その後1966年にかけて、スリー・マスケティアーズ、Riki Maiocchi、再びNeil Christian and the Crusadersと活動した。
  11. ^ 1967年のヨーロッパ公演ではロード・カエサル・サッチ&ザ・ローマン・エンパイア(Lord Caeser Sutch & The Roman Empire)と名乗り、ブラックモアを含むメンバー全員がサッチと同様に騎士の格好をしてステージに立った。クリームの前座を務めたこともあった。
  12. ^ Popoffによると、Neil Christianとも活動した。
  13. ^ 当時ハンブルグに住んでいたブラックモアはイタリアに向かう船の中でペイスに出会った。ペイスが当時在籍していたザ・メイズは1967年1月からミラノに3か月間滞在して"Chips With Everything"という舞台の音楽を担当していた。後日両者はハンブルグで再会してクラブで一緒に演奏し、ブラックモアはペイスのドラミングを気に入って一緒に活動しようと誘ったが、ペイスはザ・メイズの仕事を優先して断わった。
  14. ^ 旧メンバーは、ツアー・メンバーとして参加したチャック・バーギ(ドラムス)のみ。
  15. ^ ハンドヴィブラートはクラプトンから直接習ったが、習得するのに数年かかったと語っている。
  16. ^ ロジャー・グローヴァーの談話、後にブラックモアも認めた。
  17. ^ 人気が下降気味だったストラトキャスターの人気を復活させたのはヘンドリックスの功績だと広く語られている。
  18. ^ ただしブラックモアは、ギターをステージやPAスピーカーの角に擦りつけ振り回す、投げ上げる、踏みつける等のアクションのあと、ネックから破壊するスタイルだった。
  19. ^ ブラックモアが直接ヘンドリックスと会話を交わしたかどうかは不明。
  20. ^ 初期は鉄製の太い物へ、中期以降はステンレスへ交換。
  21. ^ 1975年頃、レインボー時代の電飾『虹』に起因するノイズ対策の為、ジョン・ドーク・スティルウェルがPUコイルのリワイア、ワックス含浸とピックガード裏全体に銅版シールドの改造を行った。Dawk Sound Limited
  22. ^ 年式は特に拘っていないが、70年代前半は特に1969年製の貼りメイプル/BLK 「初来日前に行われた全米ツアー中に誤って破壊してしまった」、1971年製のワンピース・メイプル/SB「後にヘッドストックの下が割れてしまった状態で使用し続けたのは有名」、1972年製のナチュラル/メイプル機を愛用し、70年代中期以降は1974年製のホワイト/ローズ、1976年製のホワイト/ローズを中心に愛用。
  23. ^ アルバム『ディープ・パープル・イン・ロック』(1970年)、『ファイアボール』(1971年)で、そのサウンドが聴ける。
  24. ^ 本人は野球が嫌いなので「五角形」と呼んでいる。

出典 編集

  1. ^ リッチー・ブラックモア 2022年11月29日閲覧
  2. ^ ディープ・パープル 2022年11月29日閲覧
  3. ^ a b c d 三木千寿 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』より。
  4. ^ Popoff (2016), p. 14.
  5. ^ Popoff (2016), p. 15.
  6. ^ Popoff (2016), p. 16.
  7. ^ Popoff (2016), p. 17.
  8. ^ Popoff (2016), p. 18.
  9. ^ a b Popoff (2016), p. 19.
  10. ^ Popoff (2016), pp. 19, 21.
  11. ^ Popoff (2016), pp. 19, 20, 21.
  12. ^ a b c Popoff (2016), p. 23.
  13. ^ a b Popoff (2016), p. 25.
  14. ^ Discogs”. 2024年1月11日閲覧。
  15. ^ Popoff (2016), pp. 27, 30.
  16. ^ storyofsavages.blogspot.com”. 2024年1月11日閲覧。
  17. ^ Popoff (2016), p. 30.
  18. ^ Popoff (2016), pp. 30, 31.
  19. ^ Popoff (2016), p. 33.
  20. ^ Popoff (2016), p. 87.
  21. ^ Discogs”. 2024年1月10日閲覧。
  22. ^ 酒井康 (2003-06-04), Ghost of a Roseの日本語版ライナーノーツ, ヤマハミュージック, p. 5 
  23. ^ リッチー・ブラックモア、ついにレインボー&ディープ・パープル公演ジョー・リン・ターナー「リッチー・ブラックモアと何かやる」 - Barks
  24. ^ Ritchie Blackmore Official facebook
  25. ^ リッチー・ブラックモアのハードロック回帰は限定的、新生レインボーでワールドツアーやアルバムはないと発言 - amass
  26. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、いよいよ再復活 - BARKS
  27. ^ リッチー・ブラックモア、ロックの殿堂入り欠席を正式に表明 - Barks
  28. ^ 夢にまで見た、これが新生レインボー - BARKS
  29. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、「Burn」をプレイ - BARKS
  30. ^ リッチー・ブラックモアズ・レインボー、上昇し続けるパフォーマンス”. BARKS (2019年6月18日). 2020年6月10日閲覧。
  31. ^ Popoff (2016), pp. 44, 45.
  32. ^ シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ、 P116~P117 参照 ISBN 978-4-401-63258-9
  33. ^ シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ、P100, P118~122から引用 ISBN 978-4-401-63258-9
  34. ^ シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ、P101、P116参照 ISBN 978-4-401-63258-9
  35. ^ アンプヘッド MARSHALL MAJOR - MODEL 1967 改良版を1968年に入手、1993年の再脱退まで使用。
  36. ^ BIO”. Official Site of J.R.Blackmore. 2010年7月15日閲覧。
  37. ^ Events 1969”. Sixties City. 2010年5月24日閲覧。
  38. ^ Popoff (2016), p. 61.
  39. ^ DPAS Magazine Archive. Darker Than Blue, 1981”. 2010年5月24日閲覧。
  40. ^ Between Us”. Candice Night Official Website (2006年7月). 2010年5月24日閲覧。
  41. ^ “RITCHIE BLACKMORE, Longtime Girlfriend CANDICE NIGHT Tie The Knot”. Blabbermouth.net. (2008年10月13日). オリジナルの2011年6月6日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20110606134949/http://www.roadrunnerrecords.com/blabbermouth.net/news.aspx?mode=Article&newsitemID=106777 2010年5月24日閲覧。 
  42. ^ Discogs”. 2024年1月11日閲覧。
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  46. ^ Discogs”. 2024年1月11日閲覧。
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  48. ^ Discogs”. 2024年1月11日閲覧。
  49. ^ Discogs”. 2024年1月11日閲覧。

引用文献 編集

  • Popoff, Martin (2016). The Deep Purple Family Year By Year Volume One (to 1979). Bedford, England: Wymer Publishing. ISBN 978-1-908724-42-7 

参考文献 編集

  • 三木千寿 (1977年). リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞. シンコー・ミュージック 
  • リッチー・ブラックモア研究会, ed (1993年). 『リッチー・ブラックモア ディープ・パープル編 / レインボー編』. シンコー・ミュージック 
  • 天才ギタリストシリーズ『リッチー・ブラックモア』. シンコー・ミュージック. (1998年) 
  • シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : RBギターズ . シンコー・ミュージック. (2008年) 

外部リンク 編集