1999年版『ブリタニカ国際年鑑』「サイドバー」
タミル・イーラム解放のトラ
クロード・ラキシッツ(国際問題コンサルタント)

スリランカ北東部に居住する少数民族タミル人の独立国家「イーラム国」の建設を求め、過激な武力闘争を繰り広げる「タミル・イーラム解放のトラ」。1972年の結成以来政府との停戦、決裂を繰り返しながら、その活動は無差別テロなどへとエスカレートしている。



 スリランカ北東部に居住する少数民族タミル人の独立国家「イーラム国」の建設を求め、過激な武力闘争を繰り広げる反政府組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」は、当時18歳のベルピライ・プラバカラン議長によって1972年に結成(76年に現在名に改称)され、たびたびゲリラ攻撃を仕掛けては、多数派シンハラ人の優遇政策をとるスリランカ政府を脅かしてきた。
 83年7月、北部ジャフナ半島で13人のシンハラ人政府軍兵士がタミル人ゲリラに殺害された事件をきっかけに、コロンボを中心にシンハラ人の報復攻撃が始まり、全国に波及した。この民族間の暴動によって、おもにタミル人約400人が死亡、約8万人が家を失った。これをうけて、LTTEは84年8月、政府に対し全面的な武力革命闘争を宣言、以降「光輝く島」を意味する美しい国スリランカは、凄惨な民族抗争の泥沼にはまった。LTTEは85年までに、タミル人が多く住むジャフナ島の大半を支配下に収めた。
 政府軍は87年5月、ジャフナ半島に軍事攻勢をかけた。しかし、タミル人と歴史的、文化的に結びつきの深いタミルナードゥ州を抱えるインドが、タミル人の窮状を見かねて物資援助を行なうなど、紛争に介入してきた。同年7月には両国間で和平協定が結ばれ、これに基づき、数万のインド平和維持軍(IPKF)がジャフナ半島に派遣された。IPKFはおもにゲリラの武装解除と治安維持にあたったが、LTTEは従わず、ジャングルに潜伏した。
 89年5月、当時のラナシンハ・プレマダサ大統領の停戦の呼びかけにLTTEがようやく応じ、翌90年3月にはIPKFも完全撤退した。だがその3ヵ月後、相互の不信感から再び内戦状態に逆戻りし、LTTEはIPKF撤退後のジャフナ半島を本拠に一段と兵力を増強し、数々のゲリラ作戦に打って出た。92年8月、ジャフナ半島沖のケイツ島で政府軍高官10人を地雷で殺し、93年5月にはプレマダサ大統領をコロンボで暗殺した。
 その後、和平への機運は、94年に民族融和を最優先課題に掲げたクマラトゥンガ政権が発足すると、再び高まった。翌95年1月には政府とLTTE間で停戦が実現した。また、この際の交渉で、LTTE側は完全独立から一歩譲って「自治」という統治形態を受け入れる姿勢を示した。しかし、4月に武装解除や経済封鎖解除をめぐり交渉が決裂すると、LTTEは一方的に停戦を破棄した。以来、戦闘はやむことなく続いている。
 96年1月、LTTEはコロンボの国立中央銀行に爆弾を搭載したトラックを送り込み、1500人以上を死傷させる無差別テロを決行。また、同7月には北東岸ムライティブの政府軍基地に奇襲攻撃をかけ、壊滅状態に陥れるなど、活動は大胆かつ周到なものにエスカレートしている。
 現在、推定9000人の兵を擁するLTTEは、世界で最も高度な訓練を積み、かつ強固に組織された反乱軍の一つといわれている。97年から98年にかけて、政府が戦略的道路の奪還を目指し「ジャヤ・シクル(ゆるがぬ勝利)」作戦を展開した際も、LTTEは対等、あるいはそれ以上にわたりあい、十分な戦闘能力をみせつけた。だが、女性や10代の少年少女を「駆り出しては、訓練・洗脳し、爆弾を身につけたまま目標物や重要人物に突撃させる」残虐な手口は、内外から激しい非難を浴びている。〔宮崎良子〕




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